ギターという"アイテム"

「(ブログのネタになるか不明瞭ですが…)印藤さんに質問したい事があるのですが、印藤さんにとってギター(エレクトリック、アコースティック問わず)とは何か、聞いてみたいです。

 

肉に当たって染み渡って吸収されていくような、かと思えば虚空の目に見えない小さなつぶてを振動させる瞬間もあるように感じる印藤さんのプレイに対して、鳴っている瞬間と同じくらいか、それ以上に休符がデカい と自分は思うなどします。

 

教室の隅の窓際からずっと地続きの、確かに存在する満ち満ちた虚無を今の自分が今一度噛み締めたいというわがままな気持ちもありこの形でご質問としてお渡しさせて頂きました。


漠然とした質問で申し訳ありません…。もしよろしければご査収ください!」

 


続きはらいせ / にしかたくんからのお題

https://x.com/nishikatara1se?s=21&t=fE9FFyc1k4lFpTI_Oz9_LA

 

 

先ずは素敵な文章ありがとう。

俺以上に俺がギターで表現していることを知っている気がした。

 

俺もカート・コバーンやジョニー・グリーンウッドのような気の利いた回答(名言あるいは迷言)を残したいところだけど、今、現時点では"伴奏"に過ぎないってことかな。

 

年々、シンプルになってゆく。

 

それは思考回路も表現方法も(他者から見て / 聴いてどうなのかは知らないが)ヘヴィメタルに憧れてギターを手にした日からは遠くかけ離れている。

 

実際、ここ半年、プライベートで聴いているモノはエレクトロやダブ、アンビエントばかりだ。

 

自身のプレイスタイルにそれがどう影響するのかはわからないが、恐らく、"ロックバンドを聴かないことで自分の立ち位置を見い出す"という行為に他ならない。それはヒップホップを聴いて、ビートの仕組みや日本語のリリックから匂い立つ生活感(その世界に没入するための深度)が自分にとって性に合う、といった感覚とも似ている。

 

もっと言うと、川上未映子のエッセイを読んでいる時の気持ち(没入感)とも近い。だから俺にとってはギターという"アイテム"が社会や自分が生きる為の窓口であり、ギタープレイそのものを評価されたいという気持ちはあまりない。

 

バンド、というアンサンブルの中でどう立ち回るかしか考えてない。

 

そういう訳で、事実、ライブにおいてもエフェクターは使わず、ハコに置いてある常設機材で表現が賄えるようになってきた。

 

例えば、ピアニストが10本の指と2本の足(ペダル)で残響もスタッカートも表現するように、俺も自分のギターとマーシャルがあれば、自分の心の内側や脳みその中でエフェクターはかけられる。

 

たまたま、俺にとって今は、その方が"リアル"だと思った、というだけの話。あくまで、詩世界に没入して貰う為の背景、サラウンドに過ぎない。

大体、そんな感じです。

 

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先のお題と地続きになるが、俺にとっては仲間や友達と遊ぶことで自分を知れたり、表現にとって"気付き"みたいなモノが明確になる時がある。

 

何故ならその世界を生きているから、それ以上のモノは出てこない。俺はメンバーに限らず、自分が生活する範囲で出会う人、生き方をモチーフにしている。

 

黄昏や夕焼けから学ぶこともある。

 

俺が生きた世界線を書き残すことだけに用がある。

 

そのうちライブもします。もう少し待っててね。