印藤勢の新奇録

音楽「を」食べています

哲学の礎

連載も4回目となりました。手島さん、西澤さん、そして読者の皆さん、いつもありがとうございます。


↑コチラ

注釈を入れておくと、自分が洋楽のHM/HRに出会ってから、どっぷりだった4〜5年間(16歳から20歳辺り)から、自身がバンドを組み、''日本語で歌う”という選択が出来たのも、椎名林檎やナンバーガールの影響は大きかったと思います。

その2アーティスト自体が、とてつもない洋楽のエッセンスがあるにも関わらず、(バックボーンはそれぞれ違うけれど)、我々の母国語で挑戦していたことに感銘を受けたんだと思います。

ちなみに、椎名林檎なら『眩暈』
ナンバーガールなら『ディストラクションベイビー』
が、自分にとっては衝撃でした。

また、池袋のタワレコで、THA BLUE HERBや降神、MSC、54-71等、いわゆる”アブストラクト系”と当時言われてた日本語のヒップホップ〜アンダーグラウンド派生のロックが、試聴機コーナーで一緒に展開されていたのを覚えてます。

自分のバックボーンが、HM/HRなら、自身の母国語で、どうオルタナティヴに表現して行くのか?

そんな哲学が芽生えたのも、そういう時代の影響下に、ライブハウスを恐る恐る、出入りしていたからだと思います。

音楽や、バンドそのものが=思想であれ!と、ちょっと鼻息が荒かった自分、

礎(いしずえ)は、若気の至り、黒歴史、過ち、色々な体験をして、”日本語で歌う”手法を覚え始めた頃の話です。人には言えないこと、言いたくないこと、言いづらいこと、が今も大半を占めているのは、カートコバーンの対訳を夢中で読んでいた自分が、今度は”読まれる側”になるんだ、ということを、意識し始めた頃の話でもあります。






↓小岩bushbashで、久しぶりにソロライブが決まりました。

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curveのyuseiくんが声をかけてくれました。そういえば、彼も、大きく括れば同世代かもしれないし、非常に近しい洋楽マニアでもあります。

共演のアライヨウコさんは、一回り以上離れているけれど、日本語の使い方に美意識を感じます。また、手島さんの教え子だったという不思議な縁も感じてます。