毎年恒例、一足早い忘年会のような催しになりつつある「1999〜20XX」シリーズ。
今回も三者三様の矜持とアティチュードがはっきりと分かれた夜でした。
お集まりの皆さんには大変感謝しております。
届く人には届くと思って演ってます。
そう信じてくれていることも届いています。
音楽の中だけで会話することは難しいですが、自分が最も得意なコミュニケーションがコレなので、その真髄に迫るライブを共に出来ていれば、他に言うことはありません。
本当にありがとうございました。
さて、今月のお題は深居優治くんから
「多様性」について
いわゆる"人それぞれ"という
どこか 諦めにも似た免罪符 をどう受け止めるか
みたいな話だったと思う。事なかれ主義 的な。
まず、「多様性」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、そのワードを身内で交わす際、なんだか歯切れの悪い表情をしている。(苦笑)や(失笑)のような。誤解を恐れずに言えば、ちょっとイタイ台詞のような認識があるのかもしれない。
ブラックジョーク、暗黙の了解。
「多様性」が一人歩きして誰も責任を取ってくれないんじゃないか、それはスローガンなのか、ただの 空虚な流行り言葉 なのか…出自不明のネットスラングのような、正直、そんな印象しかない。
とは言え、俺自身はなるべく寛容でありたい。そういう世界であって欲しいと想い、願う。自分の周りには社会不適合者も多いけど、友達には変わりない。何故なら、俺はそういうところで育ったから。綺麗事抜きで、ライブハウスなんて そういうやつ の吹き溜まりだろ、と思っている。
「普通」とは何か?
この文章自体、フィクションの可能性だってある、ずるい言い方だけど。
多様性が過剰になるにつれ、皆が本音を言わずイメージ上だけの 清廉潔白 を演じ、卑屈な村社会になって欲しくない。インターネット、スマホ越しにコミュニケーションを扇動する社会が怖い。
俺もココを媒体に楽曲を配信したりしているから、全く他人事とは言えない、矛盾している。
全てにおいて
※あくまで個人の見解です!
みたいな前置きが必要になってくる、違和感。
それは"人それぞれ"なのか?
縛られてないか。
見て見ぬふり、勘ぐり合うことに消費される時間。来週には忘れてしまうゴシップと、自身の フィジカルで得た経験 の境目が曖昧になる。多様性であり"人それぞれ"だから、という理由で誰も核心には触れない。メリットがないから?井戸端会議が先行する。
俺は優しくしてくれた人に優しくありたい。深居くんの名前のように。だから、多様性よりも忙しく誰かの為に働きたい。それは全部、音楽に精通していることだから。
一対一で話すことを恐れるな。