共犯者

とある漫画家と、ライブハウスの現状について

 


ここ2,3日ずっとやりとりしている。

 


あくまで、取材的なモノだがブッカーとして引退してから4,5年経つので、どこまでリアルに伝えられてるかわからない。

 


自分が見てきた範囲に限って言うと、現状、致命的に流行ってない(特に平日のブッキングは)ので、ココにも何度か書いたが、それは時代の流れであり、仕方のないことだ。

 


更に言うなら、自分も共犯者だったと言うこと。

 


目に見えて、衰退していく(と言うよりはイケてる/イケてないの過剰格差とも言える)シーンの渦中にいて、結局は"才能と実力の世界"だった、という当たり前のことから"目を背け続けた結果"なんだと思う。

 


自分なりにライブハウスとは特殊な文化であり、そこに集う異様なコミュニティや人間ドラマはもちろん今も愛しているが、バンドマンがカッコ悪いモノになったり、時代遅れで、それを自虐ネタのように扱う当事者すら現れる始末…

 


皆が皆、武道館やミュージックステーションを目指してるわけではないが、それもバブル崩壊後の日本同様、大人や企業に都合の良い体制は相変わらずだし(別にそれが悪いとも思わないが)

 


"在り方"を突き詰めたい自分としては、メジャー/インディーに限らず、なんだか茶番のように感じてしまい、興醒めする側の気持ちもわからなくはない。

 


これを、歪んだモノの見方と笑うだろうか?

 


例えるなら、昔は山登りのように山頂を目指して独自のルートで登る"過程"にもロマンがあった。

 


そのカタルシスにファンや仲間が参加することで、漠然とした運命共同体が生まれたし、作品/音源に限らず、ライブはその夢を現場で共有する為のスペースだったと思う。

 


今、俺たちは(山登りを諦めたわけではないが)山の麓で"村"を作ることにシフトをしているように思う。

 

 

再び、新しいルートを開拓する為に。

 


昔が良いとか、今が悪いとかは思わないが、何度も書くように"在り方"を提示したい俺としては、やはりカッコ悪いことはしたくないし、求め過ぎかもしれないが、仲間や後輩たちにもそう在って欲しいと願う。

 


"在り方"だけは、善悪を超えて、(三島由紀夫が再注目されているように)時代を超越して残る。

 


大袈裟に言うなら、【その人自体が表現である】

 


これも最早、時代遅れの考えなのかもしれない…

 


バンドマン全員にこれを当て嵌めたり、求めるつもりはないが、自分の理解者はそう在って欲しい

 


(これもまた、一つの古びたエゴなのかもしれない…)

 


そんな堂々巡りを、漫画家の彼のお陰で改めて考えさせられている。

 


共犯者らしく、最後まで堂々としていたい。

 


今、混迷の時代に、被害者目線になるのは容易い

 


表現とは、一方的な加害者であるべきだと思う。

 


"在り方"そのものが作品であり、ライブである。

 

 

結局は、俺の説得力の問題だ。